私,あなた,世界を結ぶコミュニケーションをつくる

東海学園大学・人文学部 淺川 和也

 

 今日,みなさんとご一緒に,私の体験も踏まえて,教え学ぶということ,国際社会で求められる価値,コミュニケーションのあり方などについて考えてみたいと思っております.

 ニュースレターを送っていただいたきまして,目をとおさせていただきました.多彩な活動をされているのに感心をいたしました。海外への青年派遣事業にはずいぶん歴史もあり,参加された方々は一様に,海外での体験の素晴らしさを語られ,第一線で活躍されているようです。私も青少年派遣事業で埼玉県が姉妹州県となっているオーストラリア・クイーンズランド州を訪れたことがあります。現在でも埼玉県国際交流協会の一会員としてとして土日だけですが,留学生を受け入れたこともあります.

 英語教育にかかわっていますと,国際交流協会にも縁があり,何年か前に,山形県鶴岡市国際交流協会の山口考子さんに招かれたこともありました。鶴岡市国際交流協会はアマゾン資料館,博物館を併設しているのですが,たいへんなご苦労があったようです.また,英語教員対象として英語を使ってワークショップスタイルでゲームなどを通しながら,世界との関わりについて考えるような研修もしたことがあります。今回は,講演ということになっています.国際交流も自分や他人とのよりよい関係をつくること始まると考えておりまして,このようなタイトルにしてみました.

 ワークショップスタイルで行うならば,部屋の四隅(Four Corners)という活動をよく導入に使います.ある文に対して,同じ意見だ,いや反対だということで,自分の考えにしたがって移動をするものです.「メガネをかけている人は頭が良い」など奇をねらったものや「路上駐車くらいかまわない」など日常ありそうなことから始めて,その全体会のテーマにふさわしものにすすみます.また,ペアやグループで話し合って合意をしてから動くようにもします.みなさん,「私たちの未来は明るい」という問いかけでは,どうでしょうか.

 判断は価値観によって異なるものです。道徳的葛藤(モラルジレンマ)についてコールバーグという学者は国際的な調査を大規模にしたことで知られています。その内容は「薬を盗む話」ことについてどう思うか判断を問うたものです.事例としては「妻がガンで死にそうである。しかし夫には薬を買えるような財力はない。その町に唯一ある薬局に後払いで薬を分けてくれるよう頼みにいくが、前払いでなければ絶対に薬はやらないと薬屋の主人が言う。そこで夫は盗みに入る」というものだったと思います.みなさんだったらどうでしょうか.命を助けるという人道的行動と,法律を破るという相反する中で葛藤があるわけです.個人での葛藤もそうですが,他人との対立,紛争状況において判断をしなければならないことが往々にしてあります.その際,柔軟な選択肢を持つこと,固定的なものの見方にとらわれないことが大切なのではないでしょうか.このようなことも後で考えてみます.

 さて,最初に,若干,自己紹介をします.私が,初めて外国へ行ったのは1980年にタイ国でのカンボジア難民キャンプでした.大正大学という仏教系の大学で学んでいたのがご縁で,YMCAは全国展開しているので知られていると思いますが,YMCAならぬYMBA全国仏教青年会の救援活動の一環でした.その後,JVC(日本国際ボランティアセンター)や曹洞宗ボランティア会などが組織化されたりして,今でこそNGOという言葉が一般的になっていますが,いわば,国際ボランティアのはしりだったのです.以降,仏教系の幼稚園の先生方とマレーシアを訪問するなど,東南アジアとのかかわりがありました.現在では中高,大学の英語の先生方を対象にスタディツアーを実施しています.今でも東南アジアに縁があるのは,何か,最初に出かけたところが影響しているのかもしれません.

 高校の英語教師を10年しました.30才前くらいだったでしょうか.その頃,コロンビア大学大学院のコースが東京でスタートしました.私が2期生です。夏,春,土日の集中講義を重ねて,修了しました。また,コロンビア大学で学んだ後,定時制高校に異動になったものですから,昼間の時間を使って立教大学大学院に社会人入試で入学し,応用社会学を勉強いたしました.高校の教科書をつくる手伝いをしていたことや書いたものもあったので,これも縁あって10年前から名古屋の東海学園女子短大で教えるようになりました.昨年から改組され東海学園大学・人文学部ができ,そちらに所属しています.現在でも中学高校の先生方や国際交流やNGO関係の方々とは縁があり,いろいろ勉強させていただいています。

 1つ目として,教え学ぶということを考えてみたいと思います.高校の英語の教員だったので英語教育を専門としているのですが,教え学ぶということを考えているうちに領域がどんどんひろがっていってしまいました。今は,日常のなかでの教え学ぶということに興味・関心を持っています。

 教育改革のなかで,総合的学習の時間というのが,小中高校に入ってきます。総合的学習の時間は,教科書もなく,評価もしないといいいます.例示として環境,情報,国際理解,福祉・健康という4つの領域があり,地域とも連携をはかりながら,主体的に学ぶ,手づくりの教育をすすめようというものです。もう,すでに国際理解教育の一環として,こちらでも実践されていますし,これから地域を学校との連携ができていくとよいと思います.しかし,なかなか生徒や教員,職員が地域と関係することはできにくいのが実状です.現場の先生方は本当に多忙ですし,生徒が外に出ていく,また,さまざまな人が校内に入ってくるとなると事故の心配や管理責任も問題になるようです。知人の話ですが,オレゴンで子育てをした経験があって,頻繁に学校に行っていたとのことです.給食の給仕の手伝いなどもし,あげくの果てに昼飯も食べてしまったりすることもあったようです.そのような調子で帰国してからも,最初,お嬢さんの小学校でもやっていたら煙たがられたというのです.父母が気軽に学校に出入りするなどということも難しいといいます.

 私は,就職してからしばらく,青少年教育のボランティアをしていたことがあります。日曜日に子ども会のお手伝いや自主事業をしていたのですが,そのための打ち合わせのために平日の夜も飛び回っていたものです。20才から30才までの者が構成メンバーでしたた。さまざまな職業の者が集まり,時には理想を語り,時にはぶつかりあいもありました。20年前はボランティアって偉いですねなどと珍しがられたのですが,自分の喜びのために,嬉しいからボランティアをするなどと生意気も言っていました。

 こうした地域での活動は、まったく偶発的に学ぶ、インシデンタルな学びだといえると思います。何かイベントを企画したり、実際の運営を通して学ぶことははかり知れないないものです。近年、盛んになってきたNPOでは、さまざまな取り組みがなされるわけで、市民の参加が求められています.そのなかで企画力や実行力がやしなわれる場合も多いと思います.

 ボランティアと言うと小中高生への導入が昨今、話題になっています。しかし,まず大人がするべきではないでしょうか。日本では,ボランティアというと無償奉仕という意味がつよいのですが,自発的な意志をもって仲間と関わりながら,力を得て,力を発揮していくものだと思うのです。力を貸してるつもりが,力を貸してもらったりするようになるのです。

 大人のボランティアということでは,欧米ではフェアトレードといって発展途上の地域から物品を直接買付けて,販売することが盛んです。,カナダでは、その店番を引退した方がなさっているようでした。そうした活動は,まさにボランティアによって支えられていると言ってもよいでしょう。

 ボランティアのように自発的な活動が本来の学びだと思います.学校制度は否定しませんが,高等学校の卒業式で卒業だと晴れ晴れしていた生徒たちに校長さんが「これからも学び続けること、一生、勉強です」とあいさつしていました.生徒は上の空で,学校のような勉強はもうこりごりだと思っていたのでしょう。校長先生の意図は、どれだけ伝わったのかと思ってしまいます。

 学校だけが学ぶ場ではないわけで,教えを乞うことのできる相手というのも教員ばかりではありません。フィリピンの農村開発や都市スラムのNGOを訪問した時に、NGOのワーカーは教育者としての役割があると,教育者の役割の重要性を聞きました。またカナダの先住民の方からもエルダー、年配者はすべて教育者だとも聞きました。謙虚に人から学ぶという姿勢を忘れてはなりません。教え学ぶことに関わるすべての者が教育者であるべきなのでしょう。本来の学びは豊かな人間関係の中でなされるものです。ボランティアのような自発的な活動の中で,潜在能力は活性化されるのでしょう.

 学者というのは、あたりまえのことを難しく言うのが商売のようで,人間の潜在能力に注目する心理学者は、人間の頭には格子みたいのがはまっていて,学ぼうという時にはそれが開いて、情報が飛び込んでくる、そうでない場合にははじいてしまうといったことを言っています。

 教わったことは忘れやすい、聞き話したことは覚えている、自分でなしとげたことは応用できるといいます。大学に入ると学力が剥がれ落ちる、学力剥離ということが言われますが、知識は忘れても人間として学んだことを失っては困ります.

 制度としての学校、スクーリングも大切です.発展途上国では、一人でも多くの子どもが学校に行けるように学校建設のニーズも高いのは事実です。男の子なら,寄宿舎に入れて勉強させるけれど,女の子は家の手伝いや子守をさせるといいます.女子教育が課題になっているのです.歩いていけるところに学校があれば,勉強ができるのです。

 しかしながら、今の日本では詰め込み教育に代表されるように、ある意味では学校での勉強が子どもたちにとって本来の学びになっていないのかもしれません。教育改革の提案として参加型の学びへの学習方法の転換が言われています。このような形でみなさま方の前で学びの転換を提案するのはまったくの矛盾です.講師から話を聞いても実際には、忘れてしまう場合が多いと思います。今日聞いたことを家族や知り合いの方に話していただいたら,少しはおぼえていただけるかもしれません.

 今の学校は知識を効率的に伝達することに重点が置かれているようです.一方、非効率的に見えても実際に企画し、実行し、考察するなかで,つまり経験的に学ぶことでさまざまなスキルも身につくわけです。実際,文化祭や体育祭などの課外活動をとおして,学んだことも多いわけです。そうした活動の中で、仲間から学び仲間とともに学ぶことができるというのです。

 参加型の学びの中では,協力、コミュニケーション、自尊感情(自分を大切にし、相手も大切にする気持ち)の3つの要素が大切だと言われます。コミュニケーションをはかりながら,協力をするなかで,前向きな自己肯定感が育っていきます。

 自分を好きになれない子は他人を受け入れたり,やさしくすることが難しいのだといいます。暴力的な子どもはきわめて自尊感情が低いという指摘があります。このようなお話をすると,傲慢を許してどうするのかというご批判をよくいただきます。自尊感情と傲慢はちがいます。逆に,自尊感情の低さ,つまり自分に価値を認められないので,相手に対して傲慢になるのだと言うのです.

 経験から学ぶ学び方では,ものごとをもうすでに変えることのできない事実としてではなく、変えることができるのだという実感を得ていくことができるとも言われています。このことは重要で,自分たちで将来を選択するという実感を持つことによって,よりよい社会をつくっていくことができるのではないでしょうか.

 現在の子どもたちや社会に無力感が蔓延しているといいます.子どもたちは現代のさまざまな問題を見聞きして,自分たちには未来がないと本能的に察知し,そうした無力感から,現実を逃避し,自暴自棄になるのかもしれません。

 反対に自分たちは何かの役に立つのだという有用感から,自尊感情を得て,パワーを得ることができるのではないでしょうか。学校でもそうですが,社会はそのような場面をつくっていく責任があるのです.それが女性の社会参画や途上国の開発現場でよく聞かれるようになった言葉ですが,エンパワメントにつながるものです.パワーは与えられるものではなく,自ら得ていくものです.

 主体的な学びについてお話しましたが,次に2つ目として,国際社会での課題について述べたいと思います.フィリピンでは高校生でも民主主義とか正義を語ります.日本の高校生はどうでしょうか.日本で,人権、平和というといろいろとあつれきがあって難しいのですが,国際的な水準からみると環境とともに人権、平和はまさに取り組むべき課題なのです。

 ユネスコはすべての教育のなかで環境、人権、開発、平和を内容とすることとしています。国際親善、国際交流もその4つの領域の実現を目指すものだと思います。国際的なホームスティ交流もそうした理念が根っ子にあるはずです.

 2000年を国連は平和の文化国際年としています。日本ではあまりマスコミもとりあげませんが,ユネスコが中心となって「私の平和宣言」に世界中で1億人の署名を集めるキャンペーンを展開しています。その中味をご紹介しましょう:

1「私は、すべてのいのちを尊敬します」
2「私は暴力に反対し,使わず,許さず,なくしていきます」
3「私は、みんなとわかちあいます」
4「私は、わかるまで耳を傾けます」
5「私は、地球環境を守ります」
6「私は、連帯を再発見します」

 また国連は今後10年を「世界の子どもたちのための平和と非暴力の文化の10年」として呼びかけています。ニューズレターにありました国際ソロプチミストもキャンペーンに貢献されたとうかがっています.

 平和の文化というと抽象的なのですが,ヨハン・ガルトゥングという平和学者が消極的平和と積極的平和に分けて,平和をとらえる枠組みを示しています。消極的平和は戦争という直接的暴力が無い状態をいい、積極的平和は差別や経済格差といった間接的,構造的暴力の解消を目指すものだというのです。平和は戦争がない状態でだけではないとすれば、環境の問題や人権、発展の問題に取り組むことで積極的平和の実現に向かうことができるのです。

 カナダでは平和教育はきわめて幅広く、人間関係トレーニングやカウンセリング、心の安らぎを求める実践をも含むようです。平和をきずくための取り組みを広くとらえる必要があるでしょう。

 3つ目として,対立から学ぶということは主体的な参加をはかり,国際的な課題にも応えるものだということを申し上げます.

 昨今の子どもをめぐる状況、いじめ、学級崩壊は大人社会の反映です。そうした子どもたちに対して,少年法を改正し、罰をもって対応することでよいのか,議論をつくさなければなりません。葛藤や対立,紛争を解決する手だてを私たちは持ちえていないのではないでしょうか.

 対立、紛争の解決としてビシネスでもコンフリクトリゾリューションというスキルが注目されていますが、教育的手法としても有効だと考えます。ものごとを言葉にするような文化が背景として欧米にはあれだけあるのに、こうしたスキルトレーニングが必要なのはニーズがあるからでしょう。日本のように一定の枠のなかにはまっていて安定していた社会ではこのような技法も必要はなかったかもしれませんが、対立や紛争の解決に暴力が頻発する昨今では、対立や紛争を積極的に転換していくために,私たちもそのような技法を学ぶ必要があるでしょう。 

 国際交流というと何か華やかで,文化行事や交換プログラムを思い浮かべるのですが,そうしたフード,ファッション,フェスティバルの紹介を面白おかしくするにとどまっている,という批判があります.外国からおいでになった方が地域に増えると労働問題や就学,保健といったさまざまなことへの対応が必要になってきます.また,トラブルも起きるわけです.しかし,国際交流というのは,何も特別なことではなくご近所づきあいの延長で,困っている方がいれば,相互に助け合うという精神があればいいと思うのです.

 世界の人々と仲良くしたい.国際親善をはかりたいということは誰しも思うとは思います。一方,日常生活や家庭生活で仲良くできなくて,文化的背景や価値観が異なる方々と仲良くすることがどうしてできるでしょうか.国際交流は,つまり,異なった人々とどのようにお互いを尊重して暮らすことができるかという課題に戻ることになります.それは,家族であったり,地域や職場などでよりよい関係をきずくことであったりします.

 それではどうしたらよりよい関係がきずけるのでしょうか.仕事なら,がまんしていることも国際交流団体もその一つですが,ボランティア活動の場面だと随分ぶつかることがあるものです.ボランティアだから,さぞかし純粋で気持ちよく活動ができると思うのですが,率直なゆえにわがままになるということがあります.外へ向かうはずのエネルギーがメンバー間の問題の解決に費やされるということも聞きます.渦中にいると冷静に問題を受け止めるのは難しいのでしょうが,そうしたコンフリクトや多様性を受けとめつつ普遍的な価値を目指すきびしさも必要です.

 対立から学ぶ技法の中で,感情に注目するやり方があります.感情を大切にするということです.感情的なことは何かよくないということのように考えられているような気がしますが,感情をあらわす言葉を豊かにしていくことで,自分の気持ちを受け止め,相手に伝えることができるのです.何でも「ムカツク」では困りますよね.コミュニケーションは文字通りの言葉だけでなく,感情そして,身体まるごとで伝えあっているのだといいます.率直に気持ちを身体まるごとで伝え合う場面が少ないような気がします.

 また,コミュニケーションでは言葉の内容とその伝え方が一致しているのが原則です.あたり前ですが,うれしそうな言葉はうれしそうな気持ち,また身体まるごとで表出されるはずなのです.いかがでしょうか.どうも私たちの英語が通じないのは,感情や身体での表出ができていないように思えます.これは英語ができないからなのではなく,日頃から気持ちを伝え合うということができていれば,つたない英語でも分かり合うことはできていくはずなのです.

 また,コミュニケーションは一対一に対応しません。子どもが家に帰ってくるなり「お腹空いた」ときまって言うとしましょう.それに対して「おやつあるわよ」といつもこたえるとしても,ある場合には,実は子どもはお腹が空いた言いながら,学校でのことを聞いて欲しいというメッセージを託しているかもしれないのです。その場合は「何かあったの」という応対が適切だと思うのです。

 4つ目として,対立を乗越えて関係を回復すること,そのためのイマジネーション,想像力についてお話します.何よりも森羅万象,すべてが関係し合っているということを想い起こすことによって関係を回復することができると思うのです.私たちは忙しい日々を送っていると感性がマヒしてきます.

 ワークショップでペアになって,一人が目隠しをして,もう片方が誘導をして散歩をしてみる「トラストウオーク」という活動をした後,話し合いをします。その中で,感覚が研ぎすまされて,通常では感じないでいる音や空気を感じることできた.また,相手への信頼をつよく持ったという感想がよくだされます.自然との関係や人との関係を思い起こす,創造力が必要です.

 次に国際交流協会でのお話ですから,まず,私たちと海外とのつながりを考えてみましょう.身の回りに外国から来ているものがどれだけあるか出し合うことで海外とのつながりを考えるきっかけになります.こんなことを小学生のワークで行うと着ているものを脱いでラベルをひっくり返したり,大騒ぎになります.身に着けているものだけでも相当あります.物ばかりでなく,漢字や芸能,美術,文化,スポーツ,技術など空間と時間をこえるさまざまな依存関係が見えてきます.

 最近,100円ショップというのがあちらこちらにあります.どうも,アジアで安く生産したものを入れているらしいのですが,この安価な価格には南北問題,豊かな北とその豊かさの裏側にある「貧しい」アジアといった関係が見え隠れしているわけです.

 関係におけるコストの問題もあります.気候が反対であるところからニュージーランドから農産物が入ってくるようになりました.カボチャや鯛なども入れているようです.羊毛など,ニュージーランド特有の物産ならよいのですが,そうでない物を何もコストを費やして,日本に運んでくることはないと思うのですが,いかがでしょうか.それだけ地球に負荷がかかるのです.

 フードセキュリティという考え方では,地域から食糧を得るべきだと提案をしています.農業も多国籍企業化していて,生産者と消費者の関係が失われてしまっています.こちらでは,となり近所で自分の家でとれたからといってお裾分けをしたりなさるでしょうか.

 時間と空間をこえた関係のおかげで私たちはあるわけです.まさに有り難いというのはこのことです.

 例えば,朝,お茶を入れる,その湯をわかすガスや水のことを考えてみましょう.ガスは,はるばる海をこえて運ばれてきました.なおかつ数万年前に命を持っていた生物の化石が,変化したものを燃料として燃やしているわけです.水も大気の循環なのです。

 昔の人はまさにそのような自然の恵み,人とのかかわり(祖先)を敬ってきたように思います.その意味でも,近年,マオリ,アボリジニー,北米先住民や世界の先住民の英知が再発見されようとしています.私たちは命の輪,ウエッブ・オブ・ライフのなかにあるのですが,現代ではその循環から逸してしまっているので,矛盾がでてきているのでしょう.海外とのつながりを考えていくと環境問題にもつながっていきます.

 数年前,カンボジアの農村で英語を教えるという経験をしました.ホームスティをしたのですが,家にはゴミ箱がないのです.ほこりも多いのですが,高床になっている竹で編んだ床からパッパッって掃き落としてしまうんです.そしたら豚が食べるんです.みんな土に戻るんです.でも最近は,キャンディの包み紙とか洗剤のパックなどビニール,英語ではプラスティクスと言いますが,増えてきて,それも昔ながらにそのままにしておくのですから散乱して,見苦しくなっていました.ダイオキシの発生を防止するどころではないですよね.フィリピンでもゴミを集積するスモーキーマウンテンと呼ばれるところがあります。ゴミの集積場所にスラムができてゴミを拾い集めて生計をたてている人々もいるわけです。数年前に移転したのですが,新しいところでも人々が住み着いて,そこで地滑りがおきて,死傷者がでたのもニュースになりました.また,フィリピンに偽って産業廃棄物満載した船が,追い返されるということもありました.

 自然が回復できる容量のゴミは自然の循環の中で再生されるはずです。しかし,現状はそのキャパシティを大きく超えてしまっているのです.しかしながら,人々は現在の便利な生活水準を下げることはしようとしません.温暖化防止もそうですし,エネルギー消費を減らすこと,持続可能な発展は地球的課題です。先住民族の持ってきた伝統的な価値観の再評価もあります.何も封建的な社会に戻れと言っているわけではありませんけれども,大量消費,使い捨て,金儲け主義を見直すというのは国際社会の潮流ではないでしょうか.企業は困るかもしれませんが働き過ぎも是正されるでしょう.

 最後に,関係としての私ということを考えてみましょう.「私は,何々」ですという文をつくるとします.何々のところにどのような言葉が入りますか.どるだけたくさん考えてみてください.一般的にはまず職業や性別が入るようです.属性として自分は外のことから規定されるわけです.現代の青年はアイデンティティの危機にあるといいます.アイデンティティとは自分は何者かということです.アイデンティティを確立するには他者との関係において自分は何者かを問いかけることが必要です.さまざまな経験をとおして自分は何者であるかという発見になるわけです.

 海外での経験が大きな転機になることも多いようです.もちろん,米国,中国,ニュージーランドなどの姉妹都市での経験も素晴らしいものですが.最近はさまざまな開発NGOがアジア・アフリカでスタディツアーを実施していて,参加する若者が増えているのは頼もしい限りです.

 「私は,何々です」の文で「私は何々会社の何々です」とすぐさま答えてしまうのではなく,できるだけたくさん「私は,何々」と言える豊かな私を持ちたいものです.

 経験的に学ぶなかで,対立をのりこえ,関係をつくりあげ,国際的な価値の実現に,少なからず貢献していくことを,みなさんと共にできればと思っています.